東京府養正館 國史壁畫集


 昭和八年十二月 皇太子殿下御誕生あらせたまふや、全國の歓喜は其の極に達し國を挙げて奉祝の誠を捧げまつる。
この時にあたり東京府は直に記念事業として青少年修養道場の創建を企圖した。
 昭和九年一月、府閣係幹部は當時の香坂知事を中心に慎重に碑究を重ね、其の結果國史を通じて雄大なる肇國精神を體得し、日本精神を錬成せんとする、少國民修養道場建設の議を快し、越えて三月臨時府會を招集し満場一致の協賛を得、茲に道場の創建が確定したのである。ついで朝野の權威十敷氏に委曙し、建築の様式及び國史繪書舘の書題と其の揮亳者とを決定するに至った。
 當時 高松宮殿下におかせられては東京府の此の企圖を聞召され、昭和九年五月宮家御所有の麻布区盛岡町所在の御用地約六千坪を、有栖川宮御記念として賜輿遊ばされた、御思召のほど眞に畏き極みである。東京府少國民修養道場は其の設立に先立ち、無上の光栄に浴したのである。
 かくて昭和十二年名稱を東京府養正館と定め本館、講堂、静修室、清風寮等の竣工を見たのであるが、其の中心とも謂ふべき壁書は本年四月に至つて漸く完成した。選定されたる書題七十七、執筆者五十六名。
 天の岩屋の御史實を第一圏とし、 皇太子殿下の御誕生に至る敷千年の歴史即ち神國日本の姿を、當代、名流の筆によりて穎はしたる壮観は國民をして感奮せしむるに足る。
 今茲、壁書完成の機會に於て東京府養正館國史繪書會がその復製を刊行し、ひろく世に頒つことと稼ったのは寔に機宜を得た企である。.
 惟ふに國吏は日本精神の展開であり、進展止まざる大和民族の血しほの中に、無窮に傳はり永劫に栄え行く皇國精神の發展を表現するものである。 されば我々はこの國史壁書集により皇國精碑の眞姿に觸れ,國體の眞髄を體認することが出来る。又之を美術品として鑑賞することによつても、大に國民精神作興に資する所ありと信ずる。
 これ余が一言を序して敢て江湖に薦むる所以である。

昭和十七年十二月
東京府知事 松村光磨

養正館其の一
養正館其の一
養正館其の二
養正館其の二
神武天皇御東征
神武天皇御東征
鳥見山の郊祀
鳥見山の郊祀
皇大神宮奉祀
皇大神宮奉祀
日本武奠
日本武奠
弟 橘 媛
弟 橘 媛

中大兄皇子と中臣鎌足

和気清麻呂

平城京

平安京

菅原道眞

醍醐天皇

那須餘一

源 頼 朝

神風

名 和 長 年

櫻井驛の訣別

楠木正行の母

楠木正行

菊 池 武 光

上 杉 謙 信

織田信長の勤皇

山内一豊の妻

名古屋城の秀吉

日本人の海外發展

徳川光圀

大石良雄

竹内式部

本居宣長

松平定信

黒船の来航

江戸城明渡

五ケ條御誓文

東京奠都

鉄道開通

憲法発布

教育勅語

廣島.の大本営

昭憲皇太后傷病兵御慰問

日露戦役

乃木将軍とステッセル

奉天入城

日本海海戦

韓國併合

明治天皇

南洋出兵

皇后陛下の御仁慈

今上陛下御帥位式

満洲事変

皇太子殿下御誕生奉覗

養正館

天照大神

天孫降臨

神武天皇御即位

神功 皇后

聖徳太子

舎人親王

紫 式 部

源義家

平重盛

明恵上人と北條泰時

松下輝尼と北條時頼

元冠

護 良 親 王

新 田 義 貞

後醍醐天皇京都還幸

北 畠 親 房

楠 木 正 行

後奈良天皇

豊臣秀吉の勤皇

加藤清正

徳川家康

孝明天皇

橋本景岳と三條貫萬

吉田松陰

大政奉還

日清戦争